店舗情報

名前 鹿熊山 常光寺
住所 富山県 下新川郡朝日町 泊283(常光寺)
駐車場 30台
最寄り駅 あいの風とやま鉄道 泊駅
アクセス ●お車をご利用の場合
東京練馬IC~関越・上信越~北陸~朝日IC~
大阪吹田IC~名神~北陸~朝日IC~
名古屋一宮IC~名神~北陸~朝日IC~
国道8号線平柳交差点を左折。小学校を右折
●電車をご利用の場合
東京駅~糸魚川駅【北陸新幹線】
糸魚川~泊駅【えちごトキめき鉄道】
泊駅からタクシーか徒歩15分

東京駅~黒部宇奈月温泉駅【北陸新幹線】
新黒部駅~黒部駅【地鉄】
黒部駅~泊駅【あいの風とやま鉄道】
泊駅からタクシーか徒歩15分

大阪駅~敦賀駅【サンダーバード】
敦賀駅から黒部宇奈月温泉駅【北陸新幹線】
名古屋駅~敦賀駅【しらさぎ】 
敦賀駅から黒部宇奈月温泉駅【北陸新幹線】

●飛行機をご利用の場合
富山空港~連絡バス~富山駅~泊駅
電話番号(常光寺) 0765-82-0625
  0765-82-1625
沿革 寺院明細帳や下新川郡史稿や寺院規則の沿革によると、「祖先は松厳といって前は真言宗で魚津の鹿熊に住んでおり、寺号を常光寺といったが、応仁の乱に戦争のため焼かれて、石川県大聖寺へ寓居(かりずまい)し、文明年間に蓮如聖人が吉崎で布教された時、真宗に帰依し明譚という法名を貰い相変らず常光寺といった。
 現在常光寺は山号が鹿能山であること、常光寺が真宗になってから寺を開いた殿町に鹿熊姓の多くの門徒のあることなどからみても600年以前から鹿熊にいたらしく真言宗であった。
 鹿熊在住のことは今寺に残る古い十二光仏名号の由来書に「文明5年(1473)夏当寺開基林義兵衛 吉崎へ出て御弟子となって法名を宗誓とたまわったが宗誓は鹿熊在住なので・・・ 」という伝説があるのでもうなづける。
 当時松倉城下は金山もあり城下町として一時人口三万を数える繁栄ぶりであった。ところが椎名康胤の松倉城が落城した天正元年1157年頃から繁栄は魚津城へ移り、神社仏閣も大半が移転した。
 1982年に前住職即慧が滑川市常光寺村当時町内会長の川口兵衛氏宅のすぐ前に地蔵堂がのこっており、その一画が昔の常光寺の跡だという。そこの畑から真言宗で礼拝の対象になる「阿字観」という石仏が出土した。御堂に安置されたものか墓石か分らないがここに寺のあったことは間違いなさそうである。
 常光寺は以前から滑川の常光寺部落に立山へお参りする人々を守る道しるべの一院をもち部落民の尊信を得ていたらしいが、落城の前後から世の乱れに無常を観し支配者としての仏教を離れて真の仏法として真宗に帰する為、滑川の一院を経て大聖寺へ移り法名や仏像を貰ったかと思われる。
 そして文明7年6月に朝日町殿町へ移り堂舎を経営し布教した処忽ち信徒が増え、数年でいくらかの壇家ができ、永禄元年(1558)5月小川洪水の際堂宇が流されたので泊町村の東北元屋敷でよい土地を見込み再建したが享保3年9月に現住所にうつり享和元年に火災に催って4月に改築してからは変っていない」と記してある。

初代 明譚(松厳)
 (不明)
13代目 明誓  慶安元年(1648)4月14日逝去
14代目 教誓  正徳5年(1715)1月14日逝去
15代目 閑應  安永5年(1776)10月15日逝去 即得院 余間昇進 中興の祖
16代目 須應  文化2年(1805)7月9日逝去  寂静院 67歳
        須應は出生は大家庄与五郎家。
        西心寺養子という形で入寺とある。
17代目 即栄  文政3年(1820)2月1日逝去  得大院 60歳
        即の字は即栄から継名
        院家の許下附を本山よりもらう。
        文政2年(1819)に現本堂建立。

※明誓寺開基は即栄弟の閑嶺。天保3年3月5日逝去 59歳。

18代目 即寧  慶應元年(1865)4月20日逝去 西生院 即法の兄
19代目 即法  慶應元年(1865)2月21日逝去 不退院 即寧の弟
        
20代目 即常  昭和22年(1947)1月29日逝去 寿徳院  95歳
       (桑守姓を名乗る)
21代目 的了 (旧姓は鈴木的了。即常には子供がいなく
        朝日町山崎村真浄寺より養子に来る)
22代目 即慧
23代目 即洋 
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